ジュールズ・ロスカム監督『トランス物語に抗して』

Posted by eba_ko | Posted in エッセイ | Posted on 24-12-2010

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2010年9月、大阪と京都で開かれた関西クィア映画祭2010に参加してきました。長編短編合わせて11作品ほど観ることができ、刺激を受けたのですが、そこで印象に残ったジュールズ・ロスカム監督「トランス物語に抗して」(2009年)について少し書いてみたいと思います。

あらすじ

「これがトランスジェンダーだ」と言うとき、「私たち」の中の誰が優遇され、また無視されているか。世代・人種・階級・文化の違いには注意が払われているか。FtM(Female to Male)の「男らしさ」についても、トランスたちを一定の方向に誘導する社会的な状況がある。ホルモンや医療的措置を入手するため、医療によってつくられた「物語」を「学ぶ」トランスたちもいる。監督は、トランス1人1人の個人史から「FtMの男らしさ」も多様であることを描く。そしてフェミニストやクィア達、トランスたちの自由な会話を通じ、私たち1人1人がより深く理解し合う可能性を探る。

この映画を観て、まず最初に思い浮かんだのは友人から聞いたFTMの方の話でした。その友人によるとその人はサッカーが好きで、男性としてサッカーチームに所属しているそうです。しかし、そのチームでは男性から少し距離をとられている、ということでした。今度は、仲のいい男友達にその話をしてみました。するとその人は、MTFもそうだしFTMもそうだけれど、トランスジェンダーの子はあくまで映画や本や漫画などで理想化され偶像化された異性像を手に入れようとしてるんだよ。だからFTMとカミングアウトされた場合も、例えば少女漫画から抜け出してきた小奇麗な男性像だったりすると、現実離れしていてちょっと戸惑ってしまう。」と言っていました。

『トランス物語に抗して』では、メディアによって流布されたステレオタイプのトランス像、(例えば、幼い頃から性違和をもっていて、胸を隠すために猫背だった、男らしくなりたくてホルモン療法を開始、胸は切除、今は髭も生え揃い彼女がいる。)に対して、1人1人の個人史から「FTMの男らしさ」の多様性を描くという内容です。FTMと括られてはいても世代や人種、育った階級や文化が違えば自ずと生活も異なるということです。

細かい話はうろ覚えで申し訳ないのですが、一つこんな例がありました。今まで一緒にフェミニストとして活動を続けてきたのになんで、生まれもった肉体を傷つけて男になりたいのか?理解できない。と言われたFTMの方がいました。そこから自分の話を始めるのです。私は、以前ショーパブで働いていた時に「もっとニューハーフらしくしなさい。」と言われたことを思い出しました。フェミニストであることとFTMであることは両立しますが、どのコミュニティ内でも傾向化されている「FTMらしさ」「MTFらしさ」また「女らしさ」があります。それは世間一般に優遇される「男らしさ」の神話の縮図でもあるでしょう。

この映画がさらに面白いのは、医療によってつくられた「トランス物語」を「学ぶ」トランスたちがいるということです。

私は16歳から18歳にかけて、GID診断を受ける為に精神科に通っていました。診断書がなければ、ホルモン療法も外科手術も受けられないと聞いていました。女性として生きるには、男性としての成長をなるべく早く止める必要があるため、図書館へ通いGIDの判断基準とされるバウムテストやロールシャッハテストの結果を覚え、診察室へ通いました。バウムテストでは去勢願望の表れとされる、折れた細い木や、葉の茂っていない木を描き、またロールシャッハテストの墨汁のようなシミは女性器に見えると、間違えないよう答えていました。逆説的ですが、多くのトランスと同じように第二次性徴に対し恐怖と危機を感じていました。

精神科を受診する事で、私はある種の「MTFらしさ」を身につけたのだと言えます。

結果としてGID診断は頂きましたが、ホルモン療法を受けることのできる年齢20歳に達していなかったため、また違う病院へ移されることになりました。FTMもトランスジェンダーも、また男性と括られる人々もそれら言葉から連想される特徴は、あくまで想像のものでしかありません。集団になればなるほど、一人の特徴は意識されなくなり、一律なものでまとめやすくなります。ですが、二重国籍者やバイリンガルが一目で分からないように、細かな差異は一人一人の内に備わっています。

ジュールズ・ロスカム監督『トランス物語に抗して』(2009年)はとても共感できる作品だったので、ぜひ多くの人にも観て頂きたいです!

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